わたしがアート活動を行うようになった経緯

はじめまして。SUMIFUDE(すみふで)名義で活動をしている鈴木里美です。

わたしは田園豪雪地帯に生まれ育ち→ 美大でメディアアートを学び→ 飲料メーカー子会社で9年間広告販促畑に従事→ 北京の国立美大で伝統木版画を学び→ 東京藝術大学大学院で批評的思考を学びながら子どもを出産し、修士号を取得。
現在、一児の母をやりながら、非常勤講師と制作活動を行なっています。

いまだに東北訛りがあるためか、それとも領域を横断しているためか、自身の経歴がうまく伝わらないときがあるのでこのページをつくりました。

お時間があるときにでも読んでいただけましたら幸甚です。


 目次
1979年 誕生、アトリウム、祖母 >>
1997年 美大、祖母の死、メディアアート >>
2002年 中国庭園フィールドワーク >>
2003年 会社員時代 >>
2007年 北京へ伝統木版画留学 >>
2013年 東京藝大大学院、論理/編集/批評、出産 >>



■1979年 誕生、アトリウム、祖母

都会ではYMOが流れる頃、NHK連続テレビ小説「おしん」のロケ地からほど近い田園豪雪地帯でわたしは生まれ育ちました。

テレビの向こう側ではYMO やパックマンなどの電子音がピコピコ鳴っている時代に、東北の地で田畑の生物と戯れ、雨の日は折り紙をする幼少期を過ごしていました。ある日、脳天にビビビと衝撃が走る出来事と出会います。

幼稚園の遠足行事で訪れた地元市庁舎での出来事。
それは金ピカでふしぎなカタチをした玄関のドアノブで、さらに市庁舎内部へ入っていくと、当時はまだ田舎では珍しかった「アトリウム」という高い天井の吹き抜け空間があり、そこにはニョキニョキ・ツンツンとした、なんともいえない形状をしたオブジェが吊り下げられていたのです。

後になってそれが建築家・黒川紀章が設計した建築物と美術家・岡本太郎のオブジェと知るのですが、それらは人生で初めて目にした衝撃的な人工物との出会いでした。


当時、両親は共働きのため同居する祖母がわたしの養育をしてくれていました。
祖母は油断すると、決まって昔の苦労話を孫のわたしに話します。

祖母は市街地で商店を営む家に生まれ、女学校を卒業してすぐに年下の銀行員とお見合い結婚をしました。
銀行員の祖父はなかなかのイケメンだったというのは祖母のいつもの口癖で、おそらく100回は聞きました。
子宝にも恵まれ、義父と義母をあわせた10人の大家族だったようです。

しかしある日、祖父が銀行から家路につこうとバイクを走らせているとき、不幸にも轢き逃げに遭い、突然の帰らぬ人となります。
ちょうど祖母が6人目の子どもを出産した翌年のことだったそうです。またさらに運悪く、その同じ年に義父も亡くします。

突然に2人もの大黒柱を失った祖母。
祖母は女学校を卒業してすぐにお見合い結婚をしていたため、仕事のキャリアは何一つありませんでした。
土地を売り、薄給のバイトのような仕事で食いつなぎ、なんとか女手ひとつで6人の子どもを養ったそうです。

そのような苦労話を聞いて育った孫のわたしは「手に職をつけなきゃダメだ」と強く思うようになります。
それがいつしか「手に職」=「芸は身を助く」=「芸って... 芸術?」と頭の悪い発想をしてしまったようなのです。



■1997年 美大、祖母の死、メディアアート

しばらくときが経ち大学進学を考える頃、ちょうど県内に公設民営で創立された美術大学が開学します。

当時は公設民営だったため授業料は有名私立美大の半額ほど。なにより自宅から通学できて経済的ねという理由から、滑り止め受験をすることなく、高校の美術部の先生の教えに従って(当時は田舎に美術予備校はなかったため)一直線にその美大(東北芸術工科大学)を目指し、無事に合格します。

大学1年次の夏、自分にとって一番に長く一緒の時間を過ごした祖母が亡くなります。
近所の念仏講が自宅に訪問し、三夜連続かけて巨大な数珠を回しながら念仏を唱える、という土着文化を目の当たりにしたわたしは、負けてらんねえずと、自分も祖母への感謝と喪に伏す作業として処女作インスタレーション《Mourning Works》を制作します。そして縁あって、渋谷で展示する機会を得ます(グループ展「雑草の庭」展)。

その渋谷でのグループ展示をきっかけに、大脇理智氏(現YCAM所属)の制作手伝いに関わるようになり、また幸村真佐男教授(メディアアーティスト、文化庁メディア芸術祭功労者)のゼミを選択したことから、しだいとメディアアートへ片足を突っ込むようになります。なお当時のわたしは Macromedia Directorを使ったインタラクティブな作品を制作していました。

大学3年次になると、あの幼少期に衝撃を受けた「市庁舎アトリウム事件」を昇華させるため、大学本館の5F-7Fのアトリウム空間に、インスタレーション作品《凡才の器》を設置します。当時の大学教務課の話によると、この吹き抜け空間に作品を吊るすのは初めての試みとのことでした。

大学4年次の夏、わたしは卒業制作《Discord》の構想のため北京師範大学へ1ヶ月間の短期留学に行きます。それはある1冊の書籍との出会いからでした。詳細はのちほど。

こうしてわたしは就職活動をせずに卒業式を迎え、謝恩会の席で「卒業後は100万貯めて中国一周、1000万貯めて大学院へ進学します」と公前宣言し、大学を卒業します。



■2002年 中国庭園フィールドワーク

大学の卒業式から遡ること1年前。
わたしは高校時代に草月流いけばなを習っており、また大学1年次に祖母が遺していった盆栽をどうしようかと、朝日カルチャーセンターの盆栽教室に通っていました。それらがきっかけで庭園に関する書籍を読んでいたところ、ある一冊の書籍と出会います。

建築史家・村松伸の著書『書斎の宇宙 -中国都市的隠遁術-』1992 INAX出版
それは中国建築と庭園における文人趣味について書かれた薄い書籍なのですが、借景や石をもちいて建物内部に自然を取り込む方法、またそれらの参考挿絵として添えられた清代の木版画を見て、これまた脳天にビビビと衝撃が走ります。

その書籍にすっかり感化され、わたしは美大の卒業制作では4つの声調によって同音異字を判別する中国語の特徴をもちいた、あたかも庭に石を配置するような作品をつくりたいとおもい、構想を練るため大学4年の夏休みに北京師範大学へ短期留学をします。
またその留学先で見た中国庭園(頤和園)を見て、卒業後に中国全土の庭園フィールドワークをしようと決意します。

わたしはテレビ局報道部とWEB制作のアルバイトで貯めた資金100万円を握りしめ、大阪港から汽船「新鑑真号」で上海へ渡り、そこからすべて陸路による中国半周・単独3ヶ月間のフィールドワークを行ないます。

18都市・23の庭園を巡り、くわえて客家円楼、雲南省ナシ族の四合院、そして旧遊郭を改良した宿に滞在することもでき、夢のような時間を過ごすことができました。おそらく人生において最大量のアドレナリンとオキシトシンが放出されたのは、この時と出産の時だけだとおもいます。

帰国後、本著の村松氏をはじめ、中国建築造園史家の田中淡氏、歴史人類学者の大室幹雄氏、そして中国文学者の中野美代子氏へご相談させていただき、自身の中国庭園との向き合い方を模索する日々が続きます。
今にして思えばこのような無遠慮な若者に対して丁寧なご対応をいただき、本当に感謝と敬意しかありません。

またちょうどその頃、千葉市立美術館で浮世絵師・鈴木春信の大規模展を目にします。
西洋の遠近法とはすこし異なる浮世絵特有の すこしふしぎな構図(※1) と凹凸のエンボス表現(※2) に感銘を受け、わたしは東京の浮世絵彫師・石井寅男氏へ会いに行きます。

※1: すこしふしぎな構図・・・ 複数遠近法。中国山水画の遠近法に大和絵の遠近法、さらには西洋の遠近法などが複数組み合わされた構図。のちにこの複数遠近法をテーマにして制作した立体作品《SHITEN chair》を制作。

※2: 凹凸のエンボス表現・・・木版画の技法「空摺り」のこと。版木に顔料をのせずに和紙の凹凸だけで表現する。のちにこの技法をもちいた木版画《Hidden Geometry》を制作。


東京・元浅草の工房を訪れ、石井氏から自作の木版画へのアドバイスをいただきました。
当時わたしはフィールドワークで見た庭園の魅力を、木版画という表現媒体で表現できないものかと考えていたからです。
木版画という手法を選んだのは、中国庭園の史料や文献には明清代の頃につくられた木版画が多く記載されていたことに起因しています。

石井氏は「時々工房にあそびに来てもいいよ」と優しくおっしゃってくださるも、弟子はとっていらっしゃらないとのこと、また職人として生活していくことの経済的な側面もおしえてくださいました。

気付けば大学を卒業してから1年が経とうとしています。
新卒採用枠で就活するには卒業から1〜2年以内でなければなりません。わたしは浮世絵の彫師や摺師のいるここ東京で正社員として勤務し、生活費を稼ぎながら週末に版画制作をしよう。そう夢に描いて、遅ればせながら就職活動を始めます。いまにおもえば甘かった。



■2003年 会社員時代

時代は就職氷河期。求人情報を探していると、たまたま昭和を代表する作詞家・阿久悠が働いていた広告代理店ということで知っていた会社名が目がとまります。その広告代理店は大手飲料メーカーの傘下に入っているようでした。
履歴書とポートフォリオを送ったところ、さっそく面接を受けることに。

面接でポートフォリオを見た当時の社長(のちのサントリー美術館副館長・練馬区立美術館館長)が「君は代理店ではなく制作会社のほうが向いてるとおもう。もし興味があれば制作会社も受験してみては」との有り難いチャンスをいただき、代理店の内定はとれませんでしたが同列企業の別会社(広告制作会社)を再受験することになります。

この広告制作会社というのは、本社の宣伝部からスピンアウトして創業された会社で、多くの文化的な広告を生み出していたことで知られていました。

面接で役員の方が「ここの大学ってデザイナーの○○が卒業したとこだっけ?」と。
わたしが卒業した美大(東北芸術工科大学)は創立が間もないこともあり東京では知名度の低い大学でしたが、たまたまOBが活躍されていたことで何処の馬の骨とも知れない奴感が大幅に緩和したのかもしれません。

そのおかげかどうかはわかりませんが、わたしは晴れて東京は大手町1丁目1番地1号(かつての江戸城正門前)へ通勤する生活がスタートします。
わたしはここで想像を超える貴重な経験をさせていただき、一緒にお仕事をさせていただいた方、ご指導いただいた方々には今でも感謝しております。  

こうして学園祭の前夜祭のような毎日も5年目を迎える頃、ん〜?自分なにすに東京来たんだっけず? 
徹夜が常態の業界において、休日は体調を整えて家事をするだけで精一杯の現状に焦りを感じ始めるのでした。こだいすこだま働いでだら版画作らんねぇ〜 んまぐねぇ...
わたしは会社に1年間のお暇をいただき、北京へと向かいます。



■2007年 北京へ伝統木版画留学

日中友好協会推薦の政府奨学金を得て、北京の国立美大(Central Academy of Fine Arts, 中央美術学院)へ留学します。

伝統木版画工作室に在籍し、ご指導くださった教授は日本の浮世絵技術にも精通されていたため(浮世絵が開発した多色摺りをするための見当や竹皮を素材とする日本のバレンなど)、日中双方の木版画技法を知ることができました。

留学時代に中国と日本の春画の違いをテーマに制作した木版画《Banana Meets Toiletpaper》がインテリア壁紙のデザインとなって WALPA よりお買い求めいただけます。

そうして木版画どっぷりの派遣留学が終わろうとする頃、このまま制作活動を続けたい想いに駆られます。 しかし数年働かなくても生きていけるほどの貯蓄はありません。

わたしは打開策を練るため留学修了後ひとまず日本へ帰国するのですが、たまたまちょうどその2008年の秋、リーマンショックがおこります。 わたしはリーマンショックの2ヶ月前に会社を退職していました。正直、判断を早まったかな、と思いました。



■2013年 東京藝大大学院、論理/編集/批評、出産

当時わたしが考えていた選択肢は2つ。
現在の少ない貯蓄で北京に拠点を構え、ビザと生活費のために現地で就労しながら創作を続けるか。
もしくは数年は働かずとも生きていけるだけの貯蓄をしてから創作活動を再開させるか。

いずれにしても時代はリーマンショックです。
話すと長くなるので割愛しますが、結果としてわたしは後者を選択します。
当時保有していた円預金はすべて外貨預金に移し(1ドル80〜90円台)、足りない額は働いて稼ごうと日本での転職活動を始めます。

たまたま前職の同列企業が求人募集を出しており、運良く採用され再び会社員として仕事に従事します。仕事運だけは強いようです。
販促プロモーションの企画職(プランナー)に配属され、定期的に顧客の買い場(チャネル)に通ってリサーチし、企画をたててクライアントや親会社にプレゼンする業務です。

これを日々習慣的に行なっていると、情報をリサーチして概念化する → 概念化したものをブリコラージュ的に掛け合わせてコンセプトをたてる という一連の作業のおもしろさを知るようになり、わたしは貯蓄が目標額に到達しても辞めることなく続けていました。
しかし入社から5年目、上司から昇進試験を受けるようにいわれます。無理もありません、わたしは33歳になっていました。

会社への恩義もありましたが、大学の卒業式の謝恩会で「100万貯めて中国一周、1000万貯めて大学院進学します」と宣言してから12年後の春、わたしはようやく大学院(東京藝術大学大学院修士課程)へ進学します。 

大学院時代には国内外の版画コンペで入選し、ミラノデザインウィーク出展、京都の和菓子コンペで金賞受賞、くわえて出産など、充実した創作時間を過ごします。

また所属した藤崎圭一郎教授のゼミでは表現領域に限定せず、作品のコンセプトを論理的 / 編集的 / 批判的に考察することを学びます。
なかでも教授が主宰されていた「文章作法講座」では論理的に自作品のコンセプトを文章化することを学ぶのですが、これら「論理的・編集的・批評的に考察すること」と「文章作成力」は、修了した現在においてもなお活かされる場面が多いです。
デザインやアートなど領域に限らず、クリエイティブな行為は「社会への問い」であり、仮説をたてることである。
そのようなことを学んだように思います。


■現在

こうして振り返ってみると、なかなかに遠回りをしたものだなあと自分でも思います。
ですから直球でアート街道を邁進されている美術家さんは本当にスゴいなと思います。

ここまで読んでいただいてもお分かりのように、わたしの場合はアートとは無縁の家庭環境で成育し、たまたま祖母の苦労話を聞いて「手に職」=「芸は身を助く」=「芸って芸術のこと?」とミスリードし、祖母の死をきっかけに制作した作品を渋谷で展示したことがアート活動を行なうきっかけになっています。

また会社員時代の業務、情報をリサーチして概念化する → 概念化したものをブリコラージュ的に掛け合わせてコンセプトをたてるという作業と、大学院のゼミで学んだ 論理的 / 編集的 / 批判的に考察すること が現在の制作スタイルの骨格を形成しており、くわえて大学院在学中に子どもを出産したことが、現在のステイトメントの礎となっています。

ステイトメント: 版の概念を広義に捉え、生命と文化をテーマに領域横断的に写し採る活動をしています。 わたしには大学院在学中に出産した娘がいるのですが、ご存知のとおり生物は親の遺伝子を Print(写し採って)して生まれてきます。 そして、体内では細胞分裂によって染色体を Copied(複製)し、また脳内では多様な思考を Tracing(なぞる)することで知能と行動を獲得していきます。 これがわたしのいう「版の概念を広義に捉える」です。 わたしの創作活動はゼロからイチを生み出すのではなく、すでに存在している物象を観察し、生命個体のひとつである自身を介して写し採ることを活動の本質としています。



以上が、わたしがアート活動を行なうようになった経緯です。
長文にも関わらず、ここまで読んでくださり誠にありがとうございました。

(擱筆)

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