生い立ち
はじめまして。SUMIFUDE(すみふで)名義で活動をしている鈴木里美です。
わたしは日本有数の田園、豪雪、温泉、桜桃の産地に生まれ育ちました。美大でメディアアートを学んだ後、会社員在職中に北京へ留学し、後に大学院へ進学しました。人生も食べ物も味に幅があったほうがおいしいです。
アート活動をするようになったきっかけ
テレビからYMOのライディーンが流れ、パリ/NYでは磯崎新の「〈間〉日本の時空間展」が開催される時代に、わたしはNHK連続テレビ小説「おしん」の撮影地から6kmほどの場所でオギャーと生まれ、ひたすら土いじり、雪いじり、折り紙をする暮らしをしていました。その3大ルーティーンをこなす田舎の幼稚園児に突如落雷のような出来事と出会います。それは幼稚園の遠足で行った市役所庁舎でした。金ピカでみょうちくりんなドアノブ。そのドアノブを押して建物の中へ入ると、当時の田舎では珍しかった高い天井の吹き抜け空間 (アトリウム) があり、その吹き抜け空間にはニョキニョキとしたオブジェが吊り下げられていたのです。わたしはすっかり脳天を撃ち抜かれます。(建築設計:黒川紀章、オブジェ:岡本太郎)
また幼少期に多くの時間を共に過ごしたのは祖母でした。
祖母は市街地で商いを営む家に生まれ、女学校を卒業してすぐに銀行員の祖父とお見合い結婚をします。祖父はなかなかの美男子だったというのは祖母のいつもの口癖でした。
祖母は6人の子どもに恵まれ、不自由なく幸せに暮らしていたそうです。しかし人生に想定外の出来事はつきもののようで、 祖父が仕事を終えて家路へと向かう途中、祖父を追い抜こうとした後続車に轢き逃げされ突然の帰らぬ人となります。享年36歳。また祖父が亡くなる4ヶ月前に曾祖父(祖母にとって義父)を亡くしたばかりの頃でした。
立て続けに大黒柱を失い、昨年産まれたばかりの赤ん坊を含む6人の子どもを独りで養っていかねばならなくなった祖母。
女学校を卒業してすぐに結婚をしたため、仕事のキャリアは何一つ無かったそうです。未亡人になった祖母に再婚話もあったようですが最終的には土地を売り、慣れない仕事をして家族を養ったとのこと。
祖母:あの時はほんとうに死に物狂いだった…
孫のわたし:(手に職がないとまずいんだな…)
祖母:旦那はほんとうにいい男だった…
孫のわたし:(旦那がいい男だと女は頑張れるんだな…)
念仏のように苦労話と惚気話を聞かされて育ったわたしは当然「手に職がないとまずいんだな」とおもうのでした。しかしそこで何をおもったのか。手に職をつける → 芸は身を助く → 芸=芸術 と実に頭の悪い発想をしてしまったことがすべてのはじまりだったのかもしれません。
しばらくときが経ち大学進学を考えはじめる頃、県内に公設民営の美術大学が開学します。当時は関東以北唯一の美術大学で、合格したあかつきには自宅からジムニーでマイカー通学できることからこの美大へ進学します。これで手に職は大丈夫だろう…そう思った矢先の大学1年次の夏、わたしの拠り所だった祖母が亡くなります。
祖母の葬儀は3夜連続で自宅の仏間で行なわれました。地元の女性15名ほどで構成された念仏講が3夜連続で自宅に来訪し、直径4メートルほどはあろうかという巨大な数珠を車座になって廻しながら念仏を唱えます。
♪おん あぼきゃべー ろしゃのぅ まかぼだらー まに はんどま じんばら はらばりたや うん
まるで柳田國男先生がお悦びになられそうな光景がいままさに自宅の仏間で展開されていたのです。いかに自分が土俗芳ばしい土地に生まれたのかを認識した瞬間でもありました。そしてまたこれらの光景に影響を受けたわたしは、自分なりのグリーフワークとして作品を制作します(インスタレーション作品《Mourning Works》。
またこの作品を渋谷で展示する機会を得ます(『雑草の庭』展, 1999, 渋谷 Space EDGE)。わたしはこのグループ展をきっかけに 大脇理智氏(YCAM, ダムタイプメンバー)の制作手伝いをさせていただくようになり、また幸村真佐男氏(メディアアーティスト, CTGメンバー)にご指導いただくなど、しだいとメディアアートへ片足を突っ込むようになります。当時のわたしは Macromedia Directorを使ったインタラクティブなデジタル作品を制作していました。
そして忘れもしない幼少期の衝撃「市庁舎アトリウム事件(別称:吹き抜けへの憧れ)」への想い昇華するため、大学の本館5Fから7Fの吹き抜け空間にインスタレーション作品《凡才の器》を展示します。当時の大学教務課の話によると、この吹き抜け空間に作品を吊るすのはこれが初めての試みとのことでした。
また大学4年次の夏休み、わたしは卒業制作の構想のため北京へ行きます。それはある一冊の書籍との出会いからでした。詳細はのちほど。
こうして迎えた卒業式。わたしは卒業式の謝恩会で「卒業後は100万貯めて中国一周。1000万貯めて大学院へ進学します」と2つの目標を公言して大学を卒業します。
庭園・木版画との出会い
大学の卒業式から遡ること数年前。わたしは高校時代に草月流いけばなを習い、大学時代は祖母が遺した盆栽の手入れのため朝日カルチャーセンター盆栽教室に通っていました。そのため庭園に関する書籍を読み漁っていた時期があったのですが、そこである一冊の書籍と出会います。
村松 伸『書斎の宇宙 -中国都市的隠遁術-』INAX出版 (1992)
それは中国文人の庭園と市中山居的な生活について書かれた薄い1冊の書籍で、その史料として掲載されていた挿絵にビビビと脳天落雷を受けます。それは明末清初の造園家・李漁によって設計された庭園で、のちに清代中期の文人・麟慶が所有していたころの庭園「半畝園」を描いた挿絵でした(『鴻雪因縁図記』掲載)。なんだろう…この懐かしいような居心地のよい感じは…。今に思えば庭という存在は祖母と多くの時間を過ごした場所であり、アジールのような空間であったのかもしれません。
すっかり中国庭園に魅了されたわたしは卒業制作の構想のため、大学4年次の夏季休暇に北京師範大学へ短期留学します。またこのときに観た北京・頤和園の庭園に感動し、卒業したら中国全土の庭園をフィールドワークしようと決意するのでした。これが卒業式謝恩会で宣言した1つ目の目標「卒業後は100万貯めて中国一周」が示すものです。
わたしは大学卒業後、アルバイトで貯めていた資金100万円を握りしめ、大阪港から汽船・新鑑真号に乗り、単独バックパックで陸路横断による3ヶ月間の中国庭園フィールドワークを遂行します。この旅で18都市、23の庭園を巡り、また民族住居の客家円楼と四合院に滞在するなど夢のような時間を過ごします。話すと長くなるのでここでは割愛。
帰国後、わたしは中国庭園へ目覚めるきっかけとなった本著の村松伸氏へ会いに行きます。また造園史家の田中淡氏、歴史人類学者の大室幹雄氏、中国文学者の中野美代子氏へご相談させていただくなど、自身と庭園との向き合い方を模索しました。いまにおもえば何処の馬の骨ともわからぬ者に親切丁寧にアドバイスいただいた先生方には感謝しかありません。
そうした庭園との向き合い方について模索していた折、鈴木春信の大規模展が千葉市立美術館で開催されます。わたしはそこで観た浮世絵のすこしふしぎな構図[1] と凹凸のエンボス表現[2]に感銘を受け、そしてふと気付くのです。そうか自分は庭園研究がしたいのではなく、ピラネージ[3]のように内在するユートピアを机上に造園したいのだ、と。それもそうです、わたしは美大出身であって研究者ではなく、またそのような頭脳も持ち合わせてはいません。いくつか木版画作品をつくり、それらを携えて東京の浮世絵彫師・石井寅男氏へ会いに行きます。
[1] 浮世絵のすこしふしぎな構図、自称SFMP (Sukoshi-Fushigi na Metaphysical Perspective):掛軸など縦長の媒体に対応した中国山水画の遠近法、絵巻など横長の媒体に対応した大和絵の遠近法、そこへ西洋絵画の透視図法などが複数組み合わされた構図のこと。のちにこの複数遠近法をテーマにして制作した椅子《SHITEN chair》を制作し、ミラノデザインウィークにて発表する。
[2] 凹凸のエンボス表現:伝統浮世絵の技法「空摺(からずり)」や「きめ出し」のこと。版木とバレンをもちいて和紙に凹凸をつけたり、あるいは刷毛やブラシで叩いて凹凸をつける浮世絵技法。この技法をもちいた木版画作品《Hidden Geometry》を北京にて制作。
[3] ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ(Giovanni Battista Piranesi):18世紀イタリアの建築家、版画家。
東京は元浅草にある石井寅男氏の工房を訪れ、自作の木版画を見ていただきました。 石井氏は「時々工房にあそびに来てもいいよ」と優しくおっしゃってくださるも、弟子はとっていらっしゃらないとのこと。また職人として自活していくことの難しさも教えてくださいました。
ひと山越えて次に登るべき山嶺が見えたような気持ちでした。そして版画を指導してくださるひとがいる東京で会社員として働き、土日に木版画を制作しよう。ついでに大学院資金も貯めよう。わたしはそう決めて就職活動を始めるのでした。おしん、モラトリアム終了。
閑話
Q. カラオケ十八番
時の流れに身をまかせを中国語と日本語で
Q. 亡くなったミュージシャンを1人だけ復活させられるなら?
レイハラカミ
Q. 部活動
高校時代:美術部
大学時代:アート企画展示部、ジムニー部
会社員時代
時代は就職氷河期、有効求人倍率 0.54倍。
美大卒業からまだ日も浅く、新卒切符を持っている身とはいえエントリーシート、課題制作、SPI試験、部署面接、人事面接、役員面接… とそう簡単に社会へ乗車させてくれないのは世の常。 片道7時間の東京行き夜行バスに乗り試験と面接を受けるも、あと一歩のところで獅子の子落としに遭います。これは何と言いますか、一種のプレイ。プレイを堪能しながら求人情報を眺めているとかつて阿久悠氏が働いていた広告代理店の社名に目がとまります。
あの阿久悠が… 働いていた広告代理店が… きゅ…求人を… ぼっ…募集している…
どうせ蹴落とされるのならば好きなひとに蹴落とされたい。応募書類を提出し、面接の機会を頂くことに。
いつものように上京し、役員面接でひと通りの質疑応答を終えた後、当時の社長(のちのサントリー美術館副館長・練馬区立美術館館長)がこうおっしゃったのです。
「君は広告代理店に向いていない」
・
・
・
また逢う…日まで… 逢える…時まで… 別れの…そのわけは〜 聞きたくないぃぃ〜
脳内で尾崎紀世彦「また逢う日まで」(作詞:阿久悠)が流れていると、次の瞬間、社長は続けてこうもおっしゃったのです。
「君は代理店よりも制作会社のほうが向いているとおもう。興味ある?」
説明しますと、この広告代理店は大手飲料メーカーの傘下にあり、代理店のほかにも制作会社がありました。また広告やグラフィック業界では飲料メーカー宣伝部のメンバー(開高健、柳原良平、坂根進、酒井睦雄、山口瞳ら)がスピンアウトして創立された会社としても知られていました。
後日わたしは制作会社を受験させていただき、晴れて内定を頂きます。生まれ育った田園豪雪温泉桜桃の郷里を離れ、いざ江戸城正門前(丸の内1丁目1−1に当時オフィスがあった)へ。「成熟するためには遠回りをしなければならない」とは開高健の言葉。おしん、丸の内OLになります。
この制作会社では枚挙にいとまがないほどの貴重な経験をさせていただきました。
入社翌月に上海出張、大手町と汐留の地下にある巨大な新聞輪転機、東宝・角川大映スタジオ、座敷わらしが出るロケ撮、一生分いや輪廻転生分のグレープフルーツを購入した大田花き市場、ブラジル撮影ドタキャン劇、某たばこPJTの完徹祭、端くれながらもカンヌ広告祭メディア部門金賞受賞…などなど、井の中の蛙だった世界がぐんぐんと広がっていきます。
ご指導いただいた諸先輩をはじめ、一緒にお仕事をさせていただいたスタッフや協業先の方々、そしてこの会社へのチャンスを与えてくださった社長にこころより感謝いたします。
こうして毎日が学園祭の前夜祭のように慌ただしく過ごすこと5年目の秋。気付けば徹夜常態、休日出勤上等。版画制作はおもうように進んではいませんでした。
あれ、自分なにすに東京さ来たんだっけ?
楽しい仕事に本分を忘れたわたしはふと我に返り、会社に1年間のお暇をいただいて中国北京へと向かいます。
留学時代
わたしは日中友好協会による政府奨学金の切符を獲得し、北京の名門国立美大(The Central Academy of Fine Arts, 中央美術学院)で念願の伝統木版画ライフを手に入れます。
文字通り木版画制作に没頭した1年間だったので特段書くことはないのですが、留学も終わりに近づく頃、やはりといいますか、このまま木版画制作を続けたい想いに駆られます。そしてその準備をしていた矢先の2008年9月。そうです。リーマンショックです。
わたしは北京で制作を続ける気満々だったため、リーマンショックの2ヶ月前に制作会社を退職していました。
人生には3つの坂があるといいます。上り坂、下り坂、そして「まさか」。
当時のわたしが考えた選択肢は以下2つ。
A. リーマンショックなんて関係ないさ。VISAと生活費のために現地就労しながら制作すればいいさ。
B. 長生きしてればいいことあるさ。東京さ戻って、しこたま働いて、潤沢な蓄えと準備をしてから制作活動を再開させればいいさ。
物語的には前者Aのほうがおいしいですが、小心者のわたしは後者Bを選択します。
当時保有していた円預金はすべて外貨預金(当時1ドル80〜90円台)へ移し、足りない額は日本で稼ごうと就職活動を始めます。
会社員時代2
時代は何度でもいいますが、リーマンショック。
有効求人倍率0.47倍、うち正社員の有効求人倍率は 0.25倍。(あら就職氷河期よりも低いじゃないの)
えっ?そんなときに転職できるのって?
安心してください。わたしは就職氷河期の経験者です。
なんなら地球の氷河期をも乗り越えた生命の末裔です。
そう自らを鼓舞して転職活動に臨みますが、現実はそう甘くはありません。 幾度となく獅子の子落としに遭い、なんだこの既視感。そんなある日、大手転職エージェントから連絡を頂きます。
「おしんさん!おしんさん! おしんさんが以前働いていらっしゃった企業と同じ飲料メーカー様からの非公開求人がありました。 いいですか… おしんさん。転職で大事なのは… 親和性です!!」
電話の向こう側から届くエージェントの熱意に押され、こちらも半ば演者のように「そうですね!!」と返答をしたらあれよあれよとエントリーシート、課題提出、担当者面接、役員面接とトントン拍子で進み、晴れて内定を頂きます。ありがとう!!飲料メーカー!!一生ここの飲料しか飲みません!!
就職氷河期とリーマンショックから2度も救ってくださったこの飲料メーカーには感謝しかありません。わたしはふたたび会社員となったのでした。そしてなんだろう、この居心地のよさ… 土日に版画制作もできるし、徹夜はないし、お給料も申し分ないし… わたしは目標の貯蓄額に達しても辞められずにいました。
するとある日、上司から昇進試験を受けるようにと告げられます。 なんだろう、この嬉しいような哀しいような複雑な気持ちは… それもそうです、わたしはいい加減、人生の覚悟を決めねばならないような年齢になっていたのでした。
大学院時代
大学の卒業式の謝恩会で「100万貯めて中国一周。1000万貯めて大学院進学します」と公言してから干支が一回りしそうな春、わたしは大学院修士課程へ進学します。目的はコンセプトを設計するための論理的思考力とアーティスト・ステイトメントを固めることでした。
「自ら仮説をたてて社会へ問う」
「同調はゆるやかな死。個性を追求することこそ生存戦略」
これはわたしの指導教官だった藤崎圭一郎先生がおっしゃっていた言葉で、現在でも時折思い返す言葉となっています。
アーティスト・ステイトメント
また大学院在学中に第一子を出産します。
つわりピーク期にミラノ展示、切迫早産による安静期に京都で初個展、そして産後2ヶ月に修了制作展。おかげさまで当時の記憶がすっぽりと抜け落ちてるのですが、夫と実家に頼れない環境下での育児と展示の両立は筆舌に尽くし難いものがありました。
しかしながら人類の進化の過程を特等席でつぶさに観た体験から、子育てはまるで畑仕事のようだという印象を持ちます(まだ過去形にするのは早過ぎますが)。
妊娠・出産・子育ては驚くほどに非効率の連続で、人間が介在しコントロールできることは米粒ほどもなく、あたかも種を蒔けば鳥に啄ばまれ、やっと芽が出たかとおもえば虫に食われ、それでも愚直に土を耕し続ける畑仕事に近いなと。そしてこの耕した土というのは、おそらく子どもにとっての原風景や拠り所になるのかもしれないと。そのことに気付くことができたのは最大の収穫かもしれません。
そしてこのような経験を通して気付いたのは「版画は生命活動と同義」ということです。ヒトは両親それぞれの遺伝子を受け継いで生まれ、身体の中では絶えずRNA転写やDNA複製といった細胞分裂を繰り返し、また脳内においても周囲の環境や他者からの概念を写し採ることで独自の視座と多様性を獲得していく。
遺伝摺り、細胞コピー、環境と概念写し採る 君は版画だ
わたしがこれまでに制作した作品には、浮世絵の構図でつくった椅子《SHITEN chair》や都市景観をお団子に写し採るプロジェクト《Tokyo Dango》などがあるのですが、これらは異なる領域や個体への “うつしかえ” によって版の本質を捉えることを通底としています。わたしは作品を通して、自分なりの版画の定義を提示していきたいとおもっています。
以上が簡単になりますが、わたしの生い立ちとアーティスト・ステイトメントです。もし興味をもっていただけたのならば今後も注目していただければ幸いです。ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
2022年1月14日 SUMIFUDE
(擱筆)