はじめまして。SUMIFUDE(すみふで)名義で活動をしている鈴木里美です。

わたしは日本有数の田園、豪雪、温泉、桜桃の産地に生まれ育ちました。美大でメディアアートを学んだ後、飲料メーカー子会社に10年間勤務し、在職中に北京へ伝統木版画留学、後に東京藝術大学大学院へ進学しました。人生も食べ物も味に幅があったほうがおいしいです。


目次
1. 幼少期:アートとのファーストコンタクト
2. 幼少期:アート活動をするようになったきっかけ1
3. 美大時代:アート活動をするようになったきっかけ2
4. 猶予期:木版画との出会い
5. 会社員:丸の内OL
6. 北京留学:伝統木版画ライフ
7. 会社員:晴海トリトンOL
8. 大学院:アーティスト・ステイトメント




1. 幼少期:アートとのファーストコンタクト

日本ではYMOのライディーンが流れ、パリ / NYでは磯崎新の「〈間〉日本の時空間展」が開催される頃、わたしはNHK連続テレビ小説「おしん」の撮影地から6kmほどの田園豪雪地帯に生まれ育ちました。

遊びといったら土いじり、雪いじり、紙いじり。その3大ルーティーンをこなす日々に突如落雷のような衝撃が走ります。それは幼稚園の遠足で行った地元市庁舎での出来事でした。

金ピカでみょうちくりんなドアノブ。そのドアノブを押して建物の中へ入ると、当時の田舎では珍しかった 高い天井の吹き抜け空間 (アトリウム) があり、そのアトリウムにはニョキニョキとしたオブジェが吊り下げられていたのです。わたしはすっかり脳天を撃ち抜かれ、よくわからないけれども細胞レベルで血湧き肉躍る経験をしたのでした。

*後になりそれが建築家・黒川紀章によって設計された建物であり、美術家・岡本太郎によって制作されたオブジェと知ります。





2. 幼少期:アート活動をするようになったきっかけ1

幼少期に多くの時間を一緒に過ごしたのは祖母でした。祖母は市街地で商いを営む家に生まれ、女学校を卒業してすぐに銀行員の祖父とお見合い結婚をします。祖父はなかなかの美男子だったというのは祖母のいつもの口癖でした。

6人の子どもにも恵まれしあわせに生活していたという祖母。しかし人生に想定外の出来事はつきもののようです。 祖父が仕事を終えて家路へバイクを走らせているところ、祖父のバイクを追い越そうとした後続車に轢き逃げされ、突然の帰らぬ人となります。享年36歳。その4ヶ月前には同居していた曾祖父(祖母にとって義父)をも亡くしていました。

突如として大黒柱の夫と義父を失い、昨年産まれたばかりの赤ん坊を含む6人の子どもと義母を、独りで養っていかねばならなくなったのです。

祖母は女学校を卒業してすぐにお見合い結婚をしていたため仕事のキャリアは何一つ無かったそうで、再婚話もあったようですが、田畑を売り、慣れない仕事をして女手ひとつで家族を養ったとのこと。

祖母:「あの時はほんとうに死に物狂いだった...」
孫:(手に職がないとまずいんだな...)

祖母:「旦那はほんとうにいい男だった...」
孫:(旦那がいい男だと頑張れるんだな...)

そのような祖母の苦労話といい男話を日々念仏のように聞かされて育った孫のわたしは、自然と「手に職がないとまずい」「いい記憶=寄す処(よすか、よりどころ)」と感じるのでした。しかしそこで何をおもったのか。手に職をつける → 芸は身を助く → 芸=芸術 と実に頭の悪い発想をしてしまったことがすべてのはじまりだったのかもしれません。

しばらくときが経ち大学進学を考えはじめる頃、県内に公設民営の美術大学が開学します。当時は関東以北唯一の美術大学で、合格したあかつきには自宅からジムニーでマイカー通学できることからこの美大へ進学します。これで手に職は大丈夫だろう...

そうして進学した矢先の大学1年次の夏、わたしの拠り所だった祖母が亡くなります。





3. 美大時代:アート活動をするようになったきっかけ2

祖母の葬儀は3夜連続で自宅の仏間で行なわれました。地元の女性15名ほどで構成された念仏講が3夜連続で自宅に来訪し、直径3〜4メートルほどの巨大な数珠を車座になった女性たちが廻しながら念仏を唱えるというものでした。

♪おん あぼきゃべー ろしゃのぅ まかぼだらー まに はんどま じんばら はらばりたや うん

まるで柳田國男先生がお悦びになられそうな光景がいままさに自宅の仏間で展開されていたのです。いかに自分が土俗芳ばしい土地に生まれたのかを認識した瞬間でもありました。そしてまた祖母の喪失との対峙から自分なりのグリーフワーク作品を制作したのでした。それが処女作となったインスタレーション作品《Mourning Works》です。

そして大学2年次に、この処女作を渋谷で展示する機会を得ます(『雑草の庭』展, 1999, 渋谷 Space EDGE)。わたしはこのグループ展をきっかけに 大脇理智氏(YCAM, ダムタイプメンバー)の制作手伝いをさせていただくようになり、また幸村真佐男氏(メディアアーティスト, CTGメンバー)にご指導いただくなど、しだいとメディアアートへ片足を突っ込むようになります。当時のわたしは Macromedia Directorを使ったインタラクティブ作品を制作していました。

また大学3年次に、あの幼少期に衝撃を受けた 市庁舎の吹き抜け空間 (アトリウム) への想いを昇華させるため、大学本館5Fから7Fの吹き抜け空間にインスタレーション作品《凡才の器》を展示します。当時の大学教務課の話によると、この吹き抜け空間に作品を吊るすのはこれが初めての試みとのことでした。

そうして卒業が間近にせまる大学4年次の夏休み、わたしは卒業制作の構想のため北京へ行きます。それはある一冊の書籍との出会いからでした。詳細はのちほど。

こうして迎えた卒業式の謝恩会の席で、わたしは「卒業後は100万貯めて中国一周、1000万貯めて大学院へ進学します」と公言して大学を後にします。





4. 猶予期:木版画との出会い

大学の卒業式から遡ること数年前。わたしは高校時代に草月流いけばなを習い、大学時代には祖母が遺した盆栽の手入れのため朝日カルチャーセンター盆栽教室に通っていました。そのため庭園に関する書籍を読み漁ることがあったのですが、そこである一冊の書籍と出会います。

村松 伸『書斎の宇宙 -中国都市的隠遁術-』INAX出版 (1992)

それは中国文人の生活様式について書かれた薄い1冊の書籍で、自然を屋内へ取り込むための装置としての庭園について紹介されており、そのなかで史料として掲載されていた一枚の木版画「半畝営園」[1] に感銘を受けます。それは人生2度目の脳天落雷でした。わたしにとって庭は祖母と多くの時間を過ごした場所であり、アジールのような空間でもありました。

[1]「半畝営園」は明末清初の劇作家・李漁によって設計された庭園「半畝園」を清代中期の文人・麟慶が所有していたころの姿を描かせたもの。書籍『鴻雪因縁図記』に掲載されている。


すっかり中国庭園に魅了されたわたしは大学4年次の夏休みに北京師範大学へ短期留学します。またこのとき北京で観た庭園・頤和園に感動し、卒業したら中国全土の庭園をフィールドワークしようと決意するのでした。これが卒業式謝恩会で宣言した1つ目の目標「卒業後は100万貯めて中国一周」が示すものです。

わたしはアルバイトで貯めていた資金100万円を握りしめ、大阪港から汽船・新鑑真号に乗り、単独・陸路横断による3ヶ月間の中国庭園フィールドワークを遂行します。この旅で18都市 23の庭園を巡り、民族住居の客家円楼と四合院へ滞在するなど夢のような時間を過ごします。話すと長くなるのでここでは割愛。

帰国後、中国庭園へ目覚めるきっかけとなった本著の村松伸氏へ会いに行き、また造園史家の田中淡氏、歴史人類学者の大室幹雄氏、中国文学者の中野美代子氏へご相談させていただくなど、自身と庭園との向き合い方を模索していました。いまにおもえば何処の馬の骨ともわからぬ者に親切丁寧にアドバイスいただいた先生方には感謝しかありません。

その模索の折、鈴木春信の大規模展が千葉市立美術館で開催されます。わたしはそこで観た 浮世絵のすこしふしぎな構図[2] と凹凸のエンボス表現[3]に感銘を受け、そしてふと気付いたのです。「そうか自分は庭園史研究がしたいのではなく、ピラネージ[4]のように内在するユートピアを紙上に造園したいのだ」。それもそうです、わたしは美大出身であって研究畑ではなく、またそのような頭脳も持ち合わせてはいません。いくつかの試作品の木版画をつくり、それらを携えて東京の浮世絵彫師・石井寅男氏へ会いに行きます。

[2] 浮世絵のすこしふしぎな構図、自称SFMP (Sukoshi-Fushigi na Metaphysical Perspective):掛軸など縦長の媒体に対応した中国山水画の遠近法、絵巻など横長の媒体に対応した大和絵の遠近法、そこへ西洋絵画の透視図法などが複数組み合わされた構図のこと。のちにこの複数遠近法をテーマにして制作した椅子《SHITEN chair》を制作し、ミラノデザインウィークにて発表する。

[3] 凹凸のエンボス表現:伝統浮世絵の技法「空摺(からずり)」「きめ出し」のこと。空摺とは顔料などの色彩をつかわずに版木とバレンをもちいて和紙に凹凸をつける技法。きめ出しも同様に顔料などの色彩をつかわずに版木のうえにのせた和紙を刷毛やブラシで叩いて凹凸をつける浮世絵技法。この技法をもちいた木版画作品《Hidden Geometry》を北京にて制作。

[4] ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ(Giovanni Battista Piranesi):18世紀イタリアの建築家、版画家。


東京は元浅草にある石井寅男氏の工房を訪れ、自作の木版画を見ていただきました。 石井氏は「時々工房にあそびに来てもいいよ」と優しくおっしゃってくださるも、弟子はとっていらっしゃらないとのこと。そして職人として自活していくことの難しさも教えてくださいました。

ひと山越えて次に登るべき山嶺の景色が見ましたが、課題は版画を指導してくださる人のいる東京で木版画を制作しながら飯を食べていく方法です。わたしは東京で会社員をしながら土日に木版画を制作し、そして大学院資金を貯めよう。そう決めて就職活動を始めるのでした。
おしん、モラトリアム終了。





閑話

Q. カラオケ十八番
時の流れに身をまかせを中国語と日本語で

Q. 亡くなったミュージシャンを1人だけ復活させられるなら?
レイハラカミ

Q. 部活動
高校時代:美術部
大学時代:アート企画展示部、ジムニー部





5. 会社員:丸の内OL

時代は就職氷河期、有効求人倍率 0.54倍。
美大卒業からまだ日も浅く、新卒切符を持っている身とはいえ、エントリーシート、課題制作、SPI試験、部署面接、人事面接、役員面接... とそう簡単に社会へ乗車させてくれないのは世の常。 片道7時間の東京行き夜行バスに乗り試験と面接を受けるも、あと一歩のところで獅子の子落としに遭います。これは何と言いますか... 一種のプレイ。プレイを堪能しながら求人情報を眺めていると かつて阿久悠氏が働いていた広告代理店の社名に目がとまります。

あの阿久悠が... 働いていた広告代理店が...  きゅ...求人を...  ぼっ...募集している... 
どうせ蹴落とされるのならば好きなひとに蹴落とされたい。応募書類を提出し、面接の機会を頂くことに。

いつものように上京し、役員面接でひと通りの質疑応答を終えた後、当時の社長(のちのサントリー美術館副館長・練馬区立美術館館長)がこうおっしゃったのです。
「君はこの会社に向いていない」



また逢う...日まで... 逢える...時まで... 別れの...そのわけは〜 聞きたくないぃぃ♪(「また逢う日まで」1971年, 作詞:阿久悠)

とこころのなかで静かに熱唱したかどうかはわかりませんが次の瞬間、社長はこうもおっしゃいました。
「君は制作会社のほうが向いてるとおもう」

説明しますと、阿久悠が勤めていたこの広告代理店は当時某飲料メーカーの傘下にありました。この飲料メーカーには宣伝部のメンバー(開高健、柳原良平、坂根進、酒井睦雄、山口瞳(敬称略))がスピンアウトして創立した広告制作会社があったのです。

チャンスを与えられたわたしは再度制作会社を受験し、晴れて広告制作会社の内定を頂きます。生まれ育った田園豪雪温泉桜桃の地を離れ、江戸城正門前(千代田区丸の内1丁目1−1)のオフィスへ。「成熟するためには遠回りをしなければならない」とは開高健の言葉。おしん、丸の内OLになります。

この制作会社では枚挙にいとまがないほどの貴重な経験をさせていただきました。
入社翌月に上海出張、大手町と汐留の地下にある巨大な新聞輪転機、東宝・角川大映スタジオ、座敷わらしが出るロケ撮、一生分いや輪廻転生分のグレープフルーツを購入した大田花き市場、ブラジル撮影ドタキャン劇、某たばこPJTの完徹祭、端くれながらもカンヌ広告祭メディア部門金賞受賞...  井の中の蛙だった世界が、ぐんぐんと広がっていきます。

ご指導いただいた諸先輩をはじめ、一緒にお仕事をさせていただいたスタッフや協業先の方々、そしてこの会社へのチャンスを与えてくださった社長にこころより感謝いたします。

こうして毎日が学園祭の前夜祭のように慌ただしく過ごすこと5年目の秋。気付けば徹夜常態、休日出勤も多く、版画制作はおもうように進んでいませんでした。

あれ、自分なにすに東京さ来たんだっけ?

わたしは会社に1年間のお暇をいただき、中国北京へと向かいます。





6. 北京留学:伝統木版画ライフ

わたしは日中友好協会による奨学金で伝統木版画留学が叶い、北京の国立美大で念願の木版画ライフを満喫します。

留学時代に中国と日本の春画の違いをテーマに制作した木版画がインテリア壁紙のデザインとなって WALPA よりお買い求めいただけます。オンラインショップはこちら >>
留学時代に制作した木版画はギャラリーそうめい堂にてお取り扱いいただいております。オンラインショップはこちら >>

文字通り木版画制作に没頭した1年間だったので特段書くことはないのですが、留学も終わりに近づく頃、やはりといいますか、このまま木版画制作を続けたい想いに駆られます。そしてその準備をしていた矢先の2008年9月。そうです。 リーマンショックです。わたしは北京で制作を続ける気満々だったため、リーマンショックの2ヶ月前に会社を退職していました。
人生には3つの坂があるといいます。上り坂、下り坂、そして「まさか」。

当時のわたしが考えた選択肢は以下2つ。

A. リーマンショックの中、僅かな蓄えで北京に拠点を構え、VISAと生活費のために現地就労しながら制作活動を続ける。

B. 長生きしてればいいことあるさ。東京さ戻って、しこたま働いて、潤沢な蓄えと準備をしてから制作活動を再開させればいいさ。

物語的には前者Aのほうがオイシイですが、小心者のわたしは後者Bを選択します。
当時保有していた円預金はすべて外貨預金(当時1ドル80〜90円台)へ移し、足りない額は日本で稼ごうと就職活動を始めます。





7. 会社員:晴海トリトンOL

時代は何度でもいいますが、リーマンショック
有効求人倍率0.47倍、うち正社員の有効求人倍率は 0.25倍。 (あら就職氷河期よりも低いじゃないの)

えっ?そんなときに転職できるのって?
安心してください。わたしは就職氷河期の経験者です。
なんなら地球の氷河期をも乗り越えた生命の末裔です。

そう自らを鼓舞して転職活動に臨みますが、現実はそう甘くはありません。 幾度となく獅子の子落としに遭い、なんだこの既視感。そんなある時、大手転職エージェントから連絡を頂きます。

「おしんさん!おしんさん! おしんさんが以前働いていらっしゃった企業と同じ飲料メーカー様からの非公開求人がありました。 いいですか... おしんさん。転職で大事なのは...『親和性』です!!」

電話の向こう側から届くエージェントの熱意に押され、こちらも演者のように「そうですよねっ!」と返答をしたらあれよあれよとエントリーシート、課題提出、担当者面接、役員面接とトントン拍子で進み、晴れて内定を頂きます。

就職氷河期とリーマンショックから2度も救ってくださり、トータル10年間も働かせていただいたこの飲料メーカーには感謝しかありません。わたしは販促プロモーションの企画部へ配属され、ふたたび会社員となったのでした。

なんだろう、この居心地のよさ。わたしは目標の貯蓄額に達しても辞められずにいました。するとある日、上司から昇進試験を受けるようにと告げられます。 なんだろう、この嬉しいような哀しいような気持ち。わたしは人生の覚悟を決める年齢になっていたのです。 





8. 大学院:アーティスト・ステイトメント

大学の卒業式の謝恩会で「100万貯めて中国一周、1000万貯めて大学院進学します」と公言してから干支が一回りした12年後の春、ようやく大学院修士課程へ進学します。アートとデザインを批評的な視点で言語化し、社会と共創するゼミに所属します。わたしの目的は自身のアーティスト・ステイトメントを言語化することでした。

実際に恐ろしく脳内の整理整頓が苦手なわたしにとって、教授やクラスメイトから客観的なアドバイスを得ながら推敲していく作業はこの上なく充実したものでした(ついでにいうとロイヤル・カレッジ・オブ・アートのアンソニー・ダン教授のワークショップを受けられたのは貴重な経験でした)。

「自ら仮説をたてて社会へ問う」
「同調はゆるやかな死。個性を追求することこそ生存戦略」

これはわたしの指導教官だった藤崎圭一郎氏がおっしゃっていた言葉で、現在でも時折思い返す言葉となっています。



また在学中に第一子を出産します。

つわりピーク期のミラノサローネ展示、切迫早産による自宅安静期の京都個展、そして産後2ヶ月での修了制作展。おかげさまで当時の記憶がすっぽりと抜け落ちてるのですが、夫と実家に頼れない環境下での育児と展示との両立は筆舌に尽くし難いものがありました。

しかしながら人類の進化の過程を特等席でつぶさに観た体験から、子育てはまるで畑仕事のようだという印象を持ちます(まだ過去形にするのは早過ぎますが)。

妊娠・出産・子育ては驚くほどに非効率の連続で、人間が介在しコントロールできることは米粒ほどもなく、あたかも種を蒔けば鳥に啄ばまれ、やっと芽が出たかとおもえば虫に食われ、それでも愚直に土を耕し続ける畑仕事に近いなと。そしてこの耕した土というのは、おそらく子どもにとっての原風景拠り所になるのかもしれないと。そのことに気付くことができたのは最大の収穫かもしれません。

そしてこのような経験を通して感じるのは、生命はゼロからイチが突如として生まれることはないということ。ヒトは両親からそれぞれの遺伝子を受け継いで生まれ、身体の中では絶えずDNAからRNAへの転写、DNA複製、そして細胞分裂を繰り返し、思考においても養育環境や教育から概念を写し採ることで独自の視座と多様性を獲得していく。

 遺伝摺り、細胞コピー、環境と概念写し採る 君は版画だ

版画は「あいだ」を表現する芸術ともいわれます*。絵画はキャンバスなどの支持体に筆やナイフで顔料を乗せていく直接表現です。対する版画は「版」を媒介させて転写する間接表現であり、「版」という個体が完成作品に実在することはなく、そこに「版」が存在したという情報を遺す行為です。わたしはこのような生物的なふるまいをする版表現に興味があり、従来の木版画はもちろんのこと、浮世絵の遠近法の構図を立体物へ還元してみたり、あるいは都市景観をお団子へ写し採るなどの広義の版活動(写し採る活動)を介して「版」の本質を捉えてみたいと思っています。
(*松山龍雄著『版画、「あいだ」の美術』参照)

以上が簡単になりますが、わたしの生い立ちとアーティスト・ステイトメントです。もし興味をもっていただけたのならば今後も注目していただければ幸いです。ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

2022年1月14日 SUMIFUDE
(擱筆)

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