はじめまして。SUMIFUDE (すみふで)名義で活動をしている鈴木里美です。

わたしは日本有数の田園豪雪地帯の温泉湧出地の桜桃産地に生まれ育ち、地元の美術大学を卒業した後、10年間ほど飲料メーカー子会社に勤務し、Central Academy of Fine Artsと東京藝術大学大学院で学び、現在は木版とメディアを掛け合わせた活動を行なっています。

とくに有益な情報が書かれてあるわけではありませんが、もしご興味ございましたらご一読いただけますと幸甚です。


目次
1. 幼少期_市庁舎との出会い
2. 幼少期_祖母の苦労話
3. 美大時代_祖母の死とグリーフワーク
4. 猶予期_中国庭園と版画
QA. 質問コーナー
5. 会社員_丸の内OL
6. 留学_北京木版画生活
7. 会社員_晴海トリトンOL
8. 大学院_制作と出産と
AS. アーティスト・ステイトメント




1. 幼少期_市庁舎との出会い

ブラウン管の向こう側では YMO やパックマンがピコピコ鳴り響いている時代に、わたしはNHK連続テレビ小説「おしん」の撮影地から6kmほどの田園豪雪地帯で生まれ育ちました。

春は田畑と戯れ、冬は降り積もる雪を眺めながら折り紙であそぶ日々。そのような単調な毎日に突如ビビビと脳天に衝撃が走る出来事が訪れます。それは幼稚園の遠足行事で行った市庁舎での出来事でした。

ドアノブが金ピカで変ちくりんなカタチ...

そのドアノブの向こうへ入ると当時まだ田舎では珍しかった アトリウムと呼ばれる高い天井の吹き抜け空間があり、そこにはまたしても変ちくりんなオブジェが吊り下げられていたのです。
わたしはすっかり脳天を撃ち抜かれ、なんともいえない胸のざわつきをおぼえます。

後になってそれらは建築家・黒川紀章により設計された建築物で、美術家・岡本太郎のオブジェと知るのですが、当時のわたしにとってそれは人生で初めて目にする現代アート作品でした。





2. 幼少期_祖母の苦労話

両親共働きのため、幼少期に最も多くの時間をともに過ごしたのが祖母でした。

祖母は市街地で商いを営む家に生まれ、女学校を卒業してすぐに銀行員の祖父とお見合い結婚をします。
子宝にも恵まれ、6人の子どもと義父母をあわせた10人の大家族だったようで、祖父はなかなかの美男子だったというのは祖母のいつもの口癖でした。

しかし不幸とは突如として訪れるようで、銀行員の祖父が外回り営業を終えて家路につこうとバイクを走らせていると、それを追い越そうとした車に轢き逃げされ、祖父は突然の帰らぬ人となります。またさらに運悪く同年に義父も病気で亡くします。

同時に大黒柱の夫と義父を失った祖母は、突如として乳飲み子を含む6人の子どもをひとりで養っていかねばならなくなったのです。
祖母は女学校を卒業してすぐにお見合い結婚をしていたため仕事のキャリアは何一つありませんでした。そのため土地を売りながら、慣れない仕事を行い、なんとか女手ひとつで6人の子どもを養ったとのこと。

そのような祖母の苦労話を念仏のように毎日繰り返し聞いて育った孫のわたしですが、当然「手に職がないとヤバそう...」と感じ取ります。

しかしそこで何をおもったのか、手に職をつける → "芸" は身を助く → "芸" =芸術 と実に頭の悪い発想をしてしまったことがすべてのはじまりだったのかもしれません。

しばらくときが経ち進学を考えはじめる頃、ちょうど県内に公設民営の美術大学が開学し、授業料は私立美術大学の約半額という驚きの価格、かつ自宅から通学できるということも後押しし、わたしは一直線にその美術大学を目指して受験に臨み入学します。
「よし、これで手に職は大丈夫だ...。」

その折、わたしのこころの拠り所だった祖母が亡くなります。





3. 美大時代_祖母の死とグリーフワーク

祖母の葬儀は地元人15名ほどで構成された念仏講が自宅に訪問し、3夜連続、車座になって巨大な数珠を回しながら念仏を唱えるというものでした。

♪おん あぼきゃべー ろしゃのぅ まかぼだらー まに はんどま じんばら はらばりたや うん

まるで柳田國男先生がお悦びになられそうな弔いの儀式を目の当たりにしたわたしは、自らも祖母の死を受けとめる作業(グリーフワーク) について考える日々が続きます。

そうして制作したのが処女作・インスタレーション作品の《Mourning Works》です。
また大学2年次の頃、この処女作を渋谷で展示する機会に恵まれます(『雑草の庭』展, 1999, 渋谷 Space EDGE)。

わたしはこのグループ展をきっかけに 大脇理智氏(現YCAM所属)の制作手伝いをさせていただくようになり、また幸村真佐男氏(メディアアーティスト、文化庁メディア芸術祭功労者)にご指導いただくなど、しだいとメディアアートへ片足を突っ込むようになります。当時のわたしは Macromedia Directorを使った作品を制作していました。

また大学3年次になると、あの幼少期に衝撃を受けた「市庁舎アトリウム事件」への想いを昇華させるため、大学本館の5F-7Fのアトリウム空間にインスタレーション作品《凡才の器》を設置します。当時の大学教務課の話によると、この吹き抜け空間に作品を吊るすのは初めての試みとのことでした。

そして卒業も間近にせまる大学4年次の夏、卒業制作の構想のため北京へ1ヶ月間の短期留学に行きます。それはある一冊の書籍との出会いからでした。詳細はのちほど。

こうしてわたしは就職活動をせずに卒業式を迎え、謝恩会の席で「卒業後は100万貯めて中国一周、1000万貯めて大学院へ進学する」と宣言して大学を卒業します。





4. 猶予期_中国庭園と版画

大学の卒業式から遡ること1年前。

わたしは高校時代に草月流いけばなを習っており、また大学時代には祖母が遺した盆栽の手入れのため盆栽教室(朝日カルチャーセンター)に通っていました。その関係で10代後半は植栽や庭園に関する書籍を読んでいたのですが、そこである一冊の書籍と出会います。

村松 伸 (1992).『書斎の宇宙 -中国都市的隠遁術-』INAX出版

それは中国庭園における文人趣味について書かれた薄い書籍なのですが、借景や屏風をもちいて室内に自然を取り込む文化、および史料として掲載されていた木版画に感銘を受け、わたしは人生2度目のビビビな衝撃を受けます。

すっかり中国庭園に魅了されたわたしは、大学4年次の夏休みに北京師範大学へ留学に行きます。目的は語学と庭園巡りだったのですが、このときに北京で観た中国庭園に感動し、大学を卒業したら中国全土の庭園をフィールドワークをしようと決意するのでした。(これが卒業式謝恩会で宣言した「卒業後は100万貯めて中国一周」が示すものです)

そうしてアルバイトで貯めた資金100万円を握りしめ、大阪港から汽船・新鑑真号に乗り、 中国一周・単独3ヶ月間のフィールドワークを遂行します。

この旅で18都市 23の庭園を巡り、客家円楼と四合院に滞在するなど夢のような時間を過ごします。

またそのフィールドワークの前後に、中国庭園へ目覚めるきっかけとなった本著の村松氏をはじめ、中国建築造園史家の田中淡氏、歴史人類学者の大室幹雄氏、そして中国文学者の中野美代子氏へお手紙、あるいは実際にお会いしてご相談させていただき、自身と中国庭園との向き合い方を模索していました。

またちょうどその頃、千葉市立美術館で鈴木春信の大規模展(『青春の浮世絵師 鈴木春信 —江戸のカラリスト登場』展)が開催され、そこでみた 浮世絵の独特な構図(※1) と凹凸のエンボス表現(※2)に感銘を受けます。この展示をみて、自分は庭師でも庭園研究家でもなく木版画で庭園を表現したいのだという確信をえて、浮世絵彫師・石井寅男氏へと会いに行くのでした。

※1: すこしふしぎな構図・・・ 複数遠近法。中国山水画の遠近法や大和絵にもちいられた遠近法、そこへ透視図法などの西洋遠近法が組み合わされた構図。のちにこの複数遠近法をテーマにして制作した椅子《SHITEN chair》を制作し、ミラノデザインウィークにて発表。

※2: 凹凸のエンボス表現・・・木版画の技法「空摺り」のこと。版木に顔料をのせずに和紙に版木で凹凸をつける。のちにこの技法をもちいた木版画《Hidden Geometry》を北京にて制作。


東京は元浅草にある石井寅男氏の工房を訪れ、独学で制作した自作木版画へのアドバイスをいただきました。
石井氏は「時々工房にあそびに来てもいいよ」と優しくおっしゃってくださるも、弟子はとっていらっしゃらないとのこと。そして職人として自活していくことの厳しさもおしえてくださいました。

なかなかこの領域のみに100%のウェイトを置くのは自殺行為だわ... と感じたわたしは昼間はサラリーマンとして働き、週末に版画を制作しよう!と遅ればせながらの就職活動を始めるのでした。
おしん、モラトリアム終了。





質問コーナー

Q. 特技
焼き秋刀魚をきれいに食べること

Q. カラオケ十八番
時の流れに身をまかせを中国語と日本語で

Q. 好きなもの
大根おろし

Q. 苦手なもの
忖度

Q. 欲しいもの
キューティクル

Q. 学生のころやってたアルバイト
高校時代: 音響スタッフ(半年)、レストラン厨房(半年)、クリーニング店(半年)
大学時代: テレビ局報道部テロップ(3年間)、WEB制作(1年半)、NTT104電話番号案内オペレーター(半年)、グラフィック・ロゴ制作(単発)、TVCMエキストラ(単発)、みちのくプロレス会場スタッフ(単発)、センバツ野球ボールカウントのスイッチャー(単発)

Q. 部活動
高校時代:美術部
大学時代:アート企画サークル、ジムニー部、無人島部

Q. 亡くなったミュージシャンを1人だけ復活させられるなら?
レイハラカミ、Nujabes、imai

Q. 原曲を超えたとおもったカバー曲は?
原曲も同じくらい好きだけど Scott Bradlee's Postmodern Jukebox feat. Kenton Chen の Closer





5. 会社員_丸の内OL

時代は就職氷河期。有効求人倍率 0.54倍。

エントリーシート、課題制作、SPI試験、部署面接、人事面接、役員面接... 
はてしない道の向こうに希望の灯火があると信じて邁進するも、あと一歩のところで獅子の子落としに遭う。

あと一歩!と登り詰めたところで落とされるほど痛みは大きく、
試験や面接のたびに片道6時間の夜行バスに乗り、日帰りで帰る生活も心身財布ともにイタい。

そう、これは何と言いますか... 一種のプレイですね ♪
そうおもいながら求人情報を眺めていると 阿久悠が昔働いていた広告代理店に目がとまります。

あの阿久悠が... かつて働いていた広告代理店が...  きゅ...求人を...  ぼっ...募集している...
さっそく応募書類を提出し、面接の機会を頂くことに。

緊張しながら役員面接に臨んでいると、当時の社長(のちのサントリー美術館副館長・練馬区立美術館館長)が、「君はここ(広告代理店)ではなく制作会社のほうが向いてるとおもう。」と、あっさり不採用を喰らいます。
しかしご紹介頂いた制作会社へのチャンスに一縷の望みを繋げ、再受験を受けるのでした。

ちなみに阿久悠がかつて働いていた広告代理店は当時某飲料メーカーの傘下にあり、この広告代理店とご紹介いただいた広告制作会社は、同じ親会社(某飲料メーカー)にもつ子会社同士という関係にありました。

こうして与えてくださったチャンスによって広告制作会社の内定を頂き、生まれ育った雪深い田園地帯を離れ、江戸城正門前(千代田区丸の内1丁目1−1)へと通勤する生活がスタートするのでした。
おしん、山形を離れて丸の内OLになる篇のはじまり。

この会社では枚挙にいとまがないほどの貴重な経験をします。
入社2ヶ月目の上海出張、謎な業界用語、新聞社地下の巨大な輪転機、東宝・角川大映スタジオ、座敷わらしが出るロケ撮泊、大量のグレープフルーツを購入した大田花き市場、ブラジル撮影ドタキャン、某たばこPJT、某北欧家具PJT、端くれながらもカンヌ広告祭メディア部門金賞受賞....

これまで知らなかった世界が、ぐんぐん広がっていきます。
ご指導いただいた諸先輩をはじめ、一緒にお仕事をさせていただいた協業先スタッフ、そしてこの会社へ入社するチャンスを与えてくださった社長に、この場をお借りして感謝申し上げます。

こうしてエブリデイ学園祭前夜の日々も5年目が過ぎようとする頃、ふと気付けば版画制作はおもうように進んでいませんでした。
あれ?自分なにすに東京さ来たんだっけ...?

刺激的なアーバンライフは田舎者のわたしにとって麻薬にほかなりません。
んまぐねな...「昼間はサラリーマンやって、週末に木版画やって、月末に彫師へ見せにいく」ために東京さ来たんだべ...?
わたしは会社に1年間のお暇をいただき、北京へと向かいます。





6. 留学_北京木版画生活

日中友好協会推薦の中国政府奨学金派遣留学生として、北京の名門美大 Central Academy of Fine Arts (中央美術学院)へ留学します。
わたしは伝統木版画工作室に在籍しながら、ようやく念願の木版画漬けの生活を満喫します。

留学時代に中国と日本の春画の違いをテーマに制作した木版画がインテリア壁紙のデザインとなって WALPA よりお買い求めいただけます。オンラインショップはこちら >>
留学時代に制作した木版画はギャラリーそうめい堂にてお取り扱いいただいております。オンラインショップはこちら >>

文字通り版画制作のみに没頭した一年間だったので、他に書くことはないのですが、そうこうして1年間の留学も終わりに近づく頃、やはり... といいますか、当然といいますか、このまま制作活動を続けたい想いに駆られます。そして、その準備をはじめていたのでした...が。

ちょうど留学を終えて北京での制作拠点の準備をしていた 2008年の9月。そうです。あのリーマンショックが起こります
わたしは北京で制作を続ける気満々だったため、リーマンショックの2ヶ月前に会社を退職していました。早まったがもすんねな...

当時のわたしが考えた選択肢は2つ。

A. 先が読めないリーマンショックの中、少ない貯蓄で北京に拠点を構え、ビザと生活費のため現地で就労しながら制作活動を続ける。

B. 長生きしていればいいことあるさ。東京さ戻って、しこたま働いで、潤沢な貯蓄と準備をしてから制作活動を再開させればいいさ。

物語的には A のほうがオモシロいですが、わたしは後者Bを選択します。
当時保有していた円預金はすべて外貨預金に移し(当時1ドル80〜90円台)、足りない額は働いて稼ごうと日本での転職活動を始めるのでした。





7. 会社員_晴海トリトンOL

時代は(何度でもいいますが)リーマンショック
有効求人倍率0.47倍。正社員の有効求人倍率にいたっては驚きの0.25倍。安定の低さ。

えっ?そんなときに転職できるのって?
はい。わたしは就職氷河期を経験した人間です。
なんなら地球の氷河期をも乗り越えた生命の末裔です。

そうやって自らを鼓舞しながら転職活動に臨み、幾度となく獅子の子落としに遭ってヒィーヒィー泣いていると、転職エージェントの担当者さんが素敵な求人情報を届けてくださいました。

「おしんさん!おしんさんが以前働いていた企業様と同じグループ企業様からの求人募集がありましたよ! 転職は親和性ですから!!」

(転職は親和性だと?)...これは逃がすまじ!!

こうして無事に内定をいただきます。
就職氷河期とリーマンショックから2度も救ってくださったこの飲料メーカーには感謝しかありません。
またエージェントの担当者さま、その節は誠にありがとうございました。

こうして再び会社員となったわたしは販促プロモーションの企画部へ配属されます。
おしん、晴海トリトンスクエアOLになる篇のはじまり。

顧客のチャネルやターゲット層をリサーチし、販促プロモーションの企画をたててクライアントへプレゼンする。これが想定外に面白くなってしまい、予定していた目標の貯蓄額に達成してもなお勤務していました。

こうして勤続5年目のある日、上司から昇進試験を受けるようにと告げられます。
それもそうです。気付けば齢33。版画はほそぼそと続けていましたが、いい加減、覚悟を決めなければいけない年齢になっていたのです。





8. 大学院時代_制作と出産と

美大の卒業式の謝恩会で「1000万貯めて大学院進学する」と宣言した日から干支が一回りした12年後の春、ようやく大学院修士課程へと進学します。

卒業当時は「自作のスタイルの方向性が見えてから大学院へ進学したかった」というのと、「親のお金で大学院へ行くのが気が引ける(将来それで食べられる保証が1ミリもないため)」という2つの理由から、自身のお金で大学院へ行こうと決めていました。

ちなみに栃木県立美術館特別研究員の山本和弘氏の調査統計データこちら>>)によりますと、日本の正規雇用の平均年収496万円(令和2年 国税庁調査)と同額、あるいはそれ以上に稼いでいる国内アーティストはわずか 6%ほど。
JRA競馬の還元率74.1%、宝くじの還元率45.7%と比較してもお分かりのとおり、アーティストで生計をたてることはギャンブル以下です。

そういうわけで東京藝術大学大学院(第10研究室, Design Critical)ではデザインとアートを批評的な視座で捉えてコンセプトを設計企画する環境を得ます。

具体的には対象分野をリサーチし、コンセプトの青写真を描いて、それを言語化して教授やゼミ仲間へプレゼンし、客観的アドバイスと実践を通して仮説を推敲していくというものです。

会社員時代にやっていた流れと基本的には同じですが、よりアカデミックな視座で自作に関するコンセプトや説明を言語化し、それについて教授やゼミの生徒から意見をもらうというサロンのような場所はとても心地がよかったです。(ついでにいうとRCAのアンソニー・ダン教授のワークショップを受けられたのは貴重な経験でした)

「自ら仮説をたてて社会へ問う」

これは担当教員の藤崎圭一郎教授が日頃から口にされていた言葉で、現在でも作品のコンセプト設計時に思い返す言葉となっており、またそうやって制作した作品は国内外のコンペに入選出展され、実りある充実した時間を過ごします。



また大学院在学中に第一子を出産します。

つわりピーク期のミラノデザインウィーク搬入搬出。
切迫早産で絶対安静明けの京都個展。
産後2ヶ月目の修了制作展...

わたくし完全にナメきっていました。反省。
すべては結果論に過ぎず、たまたま乗り切れた、ということなんだとおもいます。奇跡の連続と周囲のご厚意にあらためて感謝を申し上げます。

そういうわけで夫と実家に頼れない環境下での両立は筆舌に尽くし難いものがありましたが、おかげさまで人類の進化の過程を特等席で観させていただき、子育てはまるで畑仕事のようだなという印象を持ちました。(まだ過去形にするのは早過ぎますが)

妊娠・出産・子育ては驚くほどに非効率の連続で、人間が介在しコントロールできることなど米粒ほどもなく、あたかも「種を蒔けば鳥に啄ばまれ、やっと芽が出たかとおもったら虫に食われる」といった愚直に土を耕す畑仕事に近いなという印象です。
そしてこの耕した土というのは、おそらく子どもにとっての原風景やこころの拠り所になるのかもしれないと。そのことに気付くことができたのは最大の収穫かもしれません。

またそのような経験を通して感じるのは、生命・文化・社会は突如としてゼロからイチが生まれることはない、ということです。
ヒトは両親の遺伝子を受け継いで生まれ、細胞分裂のくりかえしによって成長し、環境や概念をトレースすることで視座と理解を獲得していくように、版を重ねながらその根底にあるものを連綿と受け継いでいるのかもしれません。

わたしはこの「連綿と受け継がれる何か(ときに原風景のような... 土のようなもの」に興味があり、木版画の“版木と和紙” という媒介/媒体に限定せず写し採る行為を重ねることで、その文脈の延長線を洗い出したいとおもっています。


以上が簡単になりますが、わたしの生い立ち(とステイトメント)です。

もし興味をもっていただけたのならば、今後も注目していただければ幸いです。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

(擱筆)

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